「教師の熱意が子どもを変える」
2019/02/09(土)
本学院の講師には、小学校の現場で長年勤務した先生方が数多くいます。中でも諸喜田和子先生は、博報賞、文部大臣奨励賞などを受賞した国語教育の大家です。
今回は諸喜田和子先生が出版した本『にこにこ いきいき はきはき-女性校長実践記-』(1997年発行)をご紹介します。諸喜田先生は、本の中で「自ら女性ということを意識して学校経営を行ってきたつもりはありません。しかし、あえて付言させて頂くならば、女性校長としての特質を生かした学校経営を模索していた」とし、「朝のあいさつ運動」や地域教育懇談会、親子読書の定例化など、女性ならではの細やかな心配りで、様々な教育実践を行ってきました。
その中から今回は、「教師の熱意が子どもを変える」をご紹介し、諸喜田先生がいかに子どもや保護者と向き合ってきたのかをご紹介したいと思います。
「教師の熱意が子どもを変える」
担任泣かせの富雄君(仮名)
わたしがその子のことを知らされたのは、赴任して四月の半ばでした。四年生までの担任が手を焼き、大変頭を悩ませていたということでした。
富雄君は五年生。不登校児です。不登校になった原因をいろいろ調べてみると、家庭環境にその原因があるように思われました。ここに、こまごまとそのことを書くのは控えたいと思いますが、母親もそのことを十分に認めているようでした。
四年生の中途から始まった不登校。担任は昼夜分かたずその子の家に足しげく通いつめての親との話し合い。子どもとの話し合い。両親との意思の疎通を図りながら取り組まれた指導日記。わたしはそれを見せられた時、これほどまでに心底から子どもを愛する教師がいることに、ただただおどろいてしまいました。
しかし、その子どもは、先生との信頼関係は十分にできていますが、もはや勉強することに抵抗感を持ち始めていました。学校への足はますます遠のいていくばかりです。
五年生になったら学校に来てくれるのではないかと、新しい担任も張り切って家庭訪問をしたりしたのですが、来る気配がありません。いよいよ、わたしも家庭訪問を始めました。そうしているうちに母親は同じ女同士ということで気軽に話しかけてくれるようになりました。最初は、「これまで毎晩のように飲んできたお酒だからやめられるかどうか分かりません」ということでしたが、「酒と子どもとどちらが大事ですか」とのわたしの説得に応じ、子どものためだからということで減らす努力をしてくれました。数日経ったある日、「この一週間飲んでいません。その代わり本を読んでいます」といってくれました。その顔は大変嬉しそうでした。また、「タバコもつとめて子どもの前でぷかぷか吸うのはよしましょう」ということに応えてもらいました。
そして、母親は朝、子どもを車に乗せて登校するようになったのです。校門で出迎えているわたしは、家庭での様子や母親の必死の努力を伺って共に涙ぐんだり、励ますことばや示唆を与えたりすることで頭がいっぱいでした。しかし、富雄君は教室にはなじめないようです。途中から教室を抜け出していなくなったりして、担任を困らせたりしていました。その度に担任は親とともに探し回ったりしなければなりません。
わたしはことの重大さにかんがみ、前担任、現担任と共に、午前零時過ぎまでも両親と子どもも一緒になって話し合ったこともありました。親に対する反発もずいぶんありました。それを聞いてほしかったので子どもの心の内を思いのままに言わせてみました。子どもの長年の欲求不満の蓄積がその子をゆがんだ方向に歩ませていたことも事実です。両親も自分たちの言動を素直に認めて、子どもに理解してもらいました。しかし、富雄君は学級の中で孤立してしまうのです。そんななかで担任をはじめ、父母とも相談し本人の了解を得たうえ、校長室登校することになりました。
いよいよ富雄君とわたしの話し合いが始まりました。勉強は、その子の好きなものを取り入れて、時間割を作成させました。「コンピュータが好き」だという。「読書も好き」だという。わたしは、算数や国語も取り入れ、時間も好きなように設定させ徐々に慣れさせていこうと考えました。富雄君は、コンピュータを操作するのが楽しいらしく、好きな機械いじりのために多くの時間を割き、楽しく勉強できるように配慮してやりました。また、読書も好きで、図書室に行って好きな本を借りてきて一気に読んでいる姿が見えました。
そんな状態が一か月近く続きました。校長が時間的に対応が難しい場合には比嘉盛保教頭があたることもありました。何とか立ち直ってくれるかなとほのかな期待をもっていた矢先、また、学校に来なくなってしまったのです。家庭へ連絡を取ってみると、師走を迎え、お金を稼がないと年越しができないという。そのために、富雄君を連れて日雇い同様の仕事に出かけているとのことでした。寸時も目を離せない状況でしたので、わたしは、「常に親と共に行動させて下さいね」と注意を促すと同時に、絶えず学校と連絡を取り合うことをお願いしました。時には、わたしが直接工事現場へいったりもしました。
そして、富雄君は六年生に上り、いちるの希望をつなぐことができました。その理由は生徒指導担当がクラス担当になったからです。朝、迎えにいったり、来ない日には、すぐ連絡をいれたり、夕方、帰宅途中にたちよって話し合ったり、はた目に見てもその熱心さが伝わってきます。担任はそのことにエネルギーを使い果たしている感さえありました。そんな折、先生の計らいで東京の和光小学校との交流会には、わざわざ、そのの子の出番を作ってあげたりもしました。
また、親は親で、その子の立ち直りのために必死になっていました。妹二人と一緒に空手道場に通わせていたのです。それを機会に交流会に出ることを進めてみると、やってもいいということになり、富雄君は、大勢の前で空手の演舞を披露してくれたのです。最初はおどおどしてはにかんでいた彼でしたが、やっているうちに熱がこもり、しその勇壮な姿からは、先生をてこずらせている姿など微塵も感じられませんでした。そのことが富雄君にとってはいい心の支えになってくれることだと信じていました。また、修学旅行の際はみんなと一緒に連れて行ってよいかどうか担任からの相談を持ちかけられましたが、わたしは快く承諾しました。級友と寝食をともにすることによって共感的感動を味わわせ、学級になじませようと努力した担任の教育者としての姿勢に心打たれたからです。
たとえ手に負えない子どもであっても先生の優しさは十分に感じ取れています。たった一人の子のために泣ける教師。たった一人の子の魂を揺さぶるために奮闘する教師。時には夜も遅くまでそれこそ必死になって探し回ったりしていた教師たち。わたしは家で待機し電話でその状況を把握したり、時には一緒になって探し回ったりしたこともありました。「一人のためにみんなが犠牲になる」ことを恐れる以前に「一人のためにみんなを活かす」教育こそ、今大事にしたいものです。
しかし、学校だけで頑張ることには限界があります。市教育委員会を始め、教育関係機関、地域の方々との連携があり支えがあったことに感謝します。
富雄君も両親の見守るなかで、きっと、自己を見つめ自らの行動を律し、自立できる人間に成長していくことと信じています。